平砂アートムーヴメント。

小貫の記事を読んでて、急に思いが迸ってしまったので書き始めてしまった。

目次

僕の部屋、240号室

「哀別/Oblivion」というタイトル、やるべきなら率直に「忘却/Oblivion」にするべきであったなぁと、展示がはじまって相当後悔した。完全に出来心で「英語タイトルと日本語タイトルずらしてみたいな」などと思ってしまった。これは一人よがりな趣味ではない、9号棟全体のコンセプトを揺るがすかもしれない一つの大切な構成要素のなかの名前という、部屋に入る前にわかる唯一の情報なんだと気付くまではずいぶん時間がかかってしまった。

作品解説を少し。 なんだか画像が投稿できないので、知らない人はなんのこっちゃわからないと思うが我慢してほしい。口で言って補えるなら写真はいらないのだ。

自転車は僕とお別れして、彼は部屋に一人で閉じこもってしまうようになった。そういうわけで彼は忘れ去られるであろう存在に成った。引きこもった彼の部屋には誰も入れない。でも、きっとほんの少しだけ思い出して欲しい気持ちがあるはずなんだろう。試しに入ってみると、寂しそうにクマの人形とベッドで横たわる彼がそこにいる訳である。

ものが忘れ去られてしまうことはしばしばあるし、古いものは捨て新しいものに乗り換えるのが常である。捨てられ生を失った彼らはそれでも一人で何か思っているのかもしれない。故人は、思い出されてこそ報われるものである。偶然あなたは生を失ったはずの自転車の部屋に入った。これをきっかけにして鑑賞者にも故人(ここでは故物だろうか)を思い出し偲んでもらえれば、という意図があった。

 

反省

忘れられたくないと思うのは人間の性とまで言えるかわからないが、僕はそう思っている。それを投影したはずの自転車は同じ感情を持ってしかるべきだと思う。

だから忘れられてしまった彼は寂しがっていただから時々扉をあけて欲しかったんだろうに、率直に思いを伝えることを僕が捻じ曲げてしまい天邪鬼な自転車に仕上げてしまった。その最たる要素が入り口のKEEP OUTのテープだ。扉に貼ったそれは鑑賞者に彼の思いを伝えるには不適切であったと、自らが自らのコンセプトに矛盾を与える形になってしまった。

僕は自分で空間を作りながら、彼のことを全然理解できていなかったことに気づいた。魂を吹き込んだ気でいただけで、まるで知った風な口を利くかのような展示をしてしまった。

自分が一番作品を理解しているはずなのだから、これだけ自分が反省しているようでは何も伝わるはずもないし、そもそも適切に表現できていないのだから当然だ。

そして、「寂しいけど強がって入るな!と主張している自転車」を表現するには力が足りなかった。力不足は自覚していたはずで、それなら「寂しがっている自転車」を押し出す方が簡単で訴えかけるには率直な気持ちであるなあ、と感じている。

 

しかし、これはコンセプトにおける反省点。鑑賞者からの意見はまた違う点で反省まみれである。

ある人は「ベッドで寂しそうに寝ているのがドアを開けた瞬間伝わってきた」と言ってくださったが、講評会での先生からのご意見では「一度見たけれど、何もわからなかった。ごめん」と言われてしまった。まさか謝られるとは思わなかったが、当時はすごくショックに近い感情を抱いた気がする。意見収集を自らは行わなかったが、当然のことながら(自分がうまく表現できていない時点でまるで伝わるはずもないのだけれど)僕が思って作った部屋の意図はあまり、というかほとんど伝えられなかったのかなと思う。

その上で先生にキャプションや写真などの補助的な要素を展示の中に取り入れる必要があるとアドバイスをいただき、会期後半はそれに従い写真スタンドとキャプションを設置した。このうえで「自転車への愛を感じた」などとは頂いたが、これはキャプションと写真が与えた新たな心象であり、作品本体が与えた心象ではないのだろうと感じた。ただ自転車を寝かせているだけで愛を感じることはないので。あと、写真が汚かった。白枠がはみ出ないようにやる方法もあったはずなのに、これは完全に最大の悪癖である雑さだ。作品に対して自ら泥を塗ったなと後悔した。

改めて、表現の手法への考えの足らなさをとても悔やんだ。

 

 

展示全体として

特定のものを晒して吊るし上げる趣味はないが、批評的にものを言うためには何かしらを対象としてあげる必要がある。クオリティの面では、僕の作品よりひどいものなんてあまりなかったように感じる。だからここから先はコンセプトとこの展示に対する考え方の話になる。

その上で、部屋ごとに毛色が全然違う、と言うのは僕的には大変好ましいものだと感じている。部屋を開けた時のfirst impressionは僕自身応募した時からずっと考えていたし、実際たくさんの作品が僕に様々な感情を与えてくれたように記憶している。

が、この様相はグループ展ではなく個人の集合体展だ。もちろん作者が違うから意思疎通なしにテーマに合わせることは不可能だろう。しかし、テーマとして掲げられていた「ここにおいてみせる/みる」を適切に表現できていた作品はどれほどあったのだろうと感じる。

自分も含めて、「個人個人のための展示場」としての9号棟になってしまっていたのではないかと少し感じた。

僕は人が住んでいた部屋を使う、ということでインスタレーション作品として部屋を丸々使うことを意識していた。だから展示前に合評会を行った時、作品展示場として使う形の部屋を見てこういう展示方法もあるのかと思った。これについて使い方が悪いとは思わないし、むしろその中で素敵な作品にいくつも巡り会えたので個人的にはすごいありがたかった。

でも、展示全体で見るならばパリッとした統一感は今回必要だったはずだし、そういうところを展示者は合わせる必要があったのかなと思った。ただインスタレーションにすればいいのかっていうとそんなわけはないし、インスタレーション以外はダメなのかというと今回に関して僕はなんとも言えない。

 

 

所属の「らしさ」とは

僕は講評会で先生に「君はメディア創成なんでしょう?そしたら他の子らみたいにメディアからアプローチするとかしてもいいんじゃないの」という旨のお言葉を頂いた。

正直なところ何か僕の中で何かが崩れた気がした。今まで所属なんて関係ないと思って作品を作ってきた。創成だってメディアに頼らないインスタレーションをやったっていいだろうと思って今回の展示も準備をしてきた。

今思えば、ただのメディア創成の学生がインスタレーションをやったってなんの才能も芸もないし、それがただただ荒っぽく稚拙なものだったから、得意な分野から攻めてみたらどうなの?ということだったのかもしれない。当時の発言の意図は感情に押し流されてしまってもう思い出せないのがとても惜しい。

しかし、実は僕はメディア表現を用いて作品を作ることがあまり得意ではない。すごく構想段階で悩んでしまうし、ずいぶんありきたりで稚拙なものに収束してしまう気がして今だに自分でそういう作品を作るのは少し苦手な意識がある。

他の創成の人間の何人かは映像だったりマイコンだったり、「創成らしさ」を感じさせるものだったとは思う。その分均質さを感じさせて、見た瞬間に創成の作品だ、となるものを僕は作りたいとは思わなかった。

だから差別化したっていいんだろうと思ったけど、前述したように僕の作品には意思を訴えかける力が足りなかったから、先生もそういう風におっしゃったのかなと考えている。

 

 

アートってなんだ

ここから先は、本当に僕が思っていることをそのまま飾らずに書く。(上だって率直な気持ちだけど)読んだ上で僕の考えをどんな風に言っても構わない。これは違うと思うっていうのがあったらぜひ聞かせてほしい。僕の芸術に対する観念はきっとガタガタであろうから。 

僕には、アートというのはまだ「わからないもの」という位置付けであることをきちんと告白しておく必要がある。奥深いというより底がまるで見えない。みんなその上で作品を作っているのかもしれないが、僕はわからないものを自分で作ることはできないから、そのせいで今まで思慮の及ぶ程度の表現しかできなかった。これを無理に避けようとして解説を薄くしたのが今回の作品の初期状態だった。

僕の審美性が足りないとか何もわかってないとかぶっ叩かれるの覚悟で言うけど、昔見た美術館においてある「わけのわからない作品」ってあると思う。見る人からは訳わからないように見えても、裏にはものすごい意思が込められていたり、何度も見たりすると何かが伝わってくるかもしれないようなものがある。でもずっと見ていてもなーんにもわからないものだってある。それでもいいんだろう、表面には現れない裏があるっていう、芸術はそういう不安定なものであってもいい、と思っている節がある。

解説を聞かないとわからない作品があっても別にいいと思ったし、そもそも芸術家は圧倒的エゴイストたちの集まりなんだと思うから、大成した人たちはまず使えることから入って成熟して独自スタイルを築き上げていくのだろうとは思う。ただ、その芸術家たちは若いうちから訳わからないものを作っていた訳じゃないし、骨子が確立されてから思い思いのスタイルに広がったと思うので、そこに思い違いがあったのだろうかと少し思う。明らかに僕は未熟なので、伝わりづらい表現に取り組む前にわかりやすく伝える必要があったのかもしれない。

全く見えてこない作品を作る人、とても丁寧な作品解説を入れる人、説明もなしに訴えかけてくるような作品を作る人、色々な人の作品を見た。これは人によってスタイルの確立度合いだったりするのかなと思うが、何れにせよそれはバックヤードの話なので鑑賞者には「わかる」から「わからない」の間の尺度だけで判断される。だからすごく難しいなと思った。どうあるべきなんだろうか。

意味を追い求めるだけでは作品は楽しめないが、意味付けは作品に感情を与えると僕は思う。作者が投影したかったものを鑑賞者に伝える、という所作はポピュラーな作品の在り方だがわかりやすく親しみやすいものなのかな、と感じた。

 

何が正しいとかは絶対無いと思う、だから終わってからもこの展示はエゴがぶつかり合うんだろうと思った。だからグループ展はひどく難しいし、運営をしてくださった二人も運営面のみならずコンセプト面で色々思うところがあったのでだろう。

でもこうやってそれぞれの中にある「芸術」をぶつけ合っていくのは、こういう機会だからすごく難しいなと思いつつ、裏腹にすごく楽しいなと思った。

 

最後に

この機会をくださった運営のお二人には改めて多大なる感謝を申し上げたい。ありがとうございました。

ちょっと肩が痛くてしんどいのでここらで切り上げることにしたい。体が悪いとものも書けないのはなかなか辛いので、皆さん健康にステ振り頑張りましょう。