僕の話
こんばんは、情報メディア創成学類3年、mast17のかとゆーです。
この記事は mast Advent Calendar 2019 の13日目の記事です。昨日の記事は友人eseboatの カメラはじめました。|eseboat|note でした。すごいいい話だから読んでほしい。
去年も遅刻してしまって、マテウスって人に散々なじられたんですけど今年も間に合いませんでした。マテウスごめん。
さて、今回のアドベントカレンダーで3回目になり随分時が経ったなあなどと思うんですけど、ネタがあんまり思いつかなかったのでTwitterアンケートを取ったら46%の人間が僕の人生の話を聞きたいなんて言うのでなんかそういうこと書きます。
技術ネタ3年にもなったら書きたいよなあとか思ったけどそんな力ありませんでした。悲しいね。
もくじ
人間性の話
人生観というのは結局人となりから派生するところなのかなと思うので、そこを話します。
2年前に書いたアドベントカレンダーでは「クソ真面目すぎて辛い」なんて書きましたが、最近の僕と言ったら自堕落そのものです。惰眠を貪った挙句平気で遅刻したり物によっては2週連続ブッチしたりしてます。当時の僕が見たらなんていうでしょうね。テストやばいぞ。
僕の良くないところは他人は他人と割り切れないところですね。他人に僕の持つ真面目さを押し付けて「あいつはあんなに不真面目だ」「あいつは生活がグチャっててダメ」とか思っちゃうんですね。この辺りについては人の生き方なので口は出すべきではないんですけど、それでも僕なんかよりスペックの高い人間はこの大学にはいっぱいいるので劣等感と嫉妬ですかね、それに押し寄せられて割と頻繁に陰鬱とします。
この頃の僕を返して。
まあこの講義に対する焦りというのは当時に比べて随分と落ち着きました。
そりゃまあ講義ちゃんと聞いてちゃんとテスト受けてちゃんと単位を取るのが至極真っ当なんですが、今思うとかなり焦り妬み僻み嫉みの塊だったので、今くらいゆったり構えてる様はちょうどいいんじゃないかなと思ってます。
加えて、結構この頃に比べれば他者と自分を区別して考えることができるようになったんじゃないかなと思います。これ大事なことで、行きすぎると他人に投射しすぎてこの世の全人間のスペックを重ねて見てしまったりすると悲惨な気持ちによくなってました。面白いですね。あとは大学の講義がこの世の全てではないことを時間をかけてちゃんと受け入れられるようになったってことかな〜とも思います。ただ出席はしよう。
ここから考えると、これは「慣れた」ということなのかもしれないですが、元来僕っていうのは物事に慣れるのがすごく遅い人間なんです。これは結構生きていく上で致命的で、環境に適応できない生命は死んでいくのでコミュニティに属して生きていく上ではなかなか辛いものがあります。
その適応力のなさだったりから無力感を感じたり、いまだに他人を羨んだり妬んだりみたいなことが結構あるのです。中身がガキなので。
mastの人間は意思を持って動ける人間がすごい多いイメージなので、先輩同級生後輩、自分の道を開拓して突き進んでる人を見ると「どうして自分は何もできないんだろう」とはなりがちだなとは思います。
でもこれに関しては無力で行動できずに縮こまっているのは嫌だから、せめて自分でちゃんと納得できるような自分になりたいですね。去年から何も成長していない自分を責めているのは何もできなかった自分っていうとても悲しい様になってしまっているので、来年は研究で忙しくてもやりたいことを見失わないようにしなきゃいけないな〜〜〜〜。。。
研究といえばついに研究室配属が行われました。第一希望のロボット系研究室にお世話になることになりましたが、物理に関しては随分曖昧なまま今まで来てしまったのでちゃんと勉強していかなきゃな〜〜〜という気持ち。
今の生活でちゃんと研究室いけんのかお前は。
大学入ってから変わったことの話
大学入ってから結構ものの見え方が変わってきて、視野が広がったというか今まで縮こまってたものは一体なんだったんだろうみたいになったので今後はガンガンに視野を開拓していきたいですね。高校時代を今思うと恥ずかしいくらい視野狭かったなあとか。
物事の中でも、言葉の意味を随分深く考えるようになりました。
上っ面だけの言葉、ぱっと聞いただけでは理解しきれない言葉に対して時間をかけてでも噛み砕いて自分なりに解釈することは以前より上手になったのかな〜と思います。
結構最近は大学に入る前よりも性格が、というよりはもともとある我が強い部分がよく出てしまっていけんなあという気持ちになったりします。結構丸い人種だったような気がしたけどな〜とか思っていたけど、ある意味奥底にあったものが出てきているだけなのかと思ったり。
生きている上でどうしても人間関係はつきもので、元来当たり障りなく生きてきた人間だったので意思がぶつかるのとか避けてきたんですけど大学入ってからは感覚が変わってきてコミュニケーションをちゃんと取るっていう当たり前のことを意識していくようになりました。
以前に比べたら衝突したり熱くなったりすることが増えたけど、これはこれで人間らしくていいんじゃないですか?知らないけど。
立ち位置の話
組織や何かしらのグループに所属する時、何かにつけてポジションが存在します。
僕は結構人の上に立ちたがりな側面があり、わかりやすいところでいくと静岡県人会の会長やらせてもらったり過去にはクラ代の局長を務めさせてもらったりしたんですが、結構これが向いてないんじゃないかって思うようになったんですね。
上でまとめ役を買って出るのも今までは好きでやってた部分もあるんですけど、意見は結構出せると思ってるし出したい派なので、下にいて色々言うのも割と好きだったり。
向いてないっていうのは、僕の悪いところとして決定力が圧倒的に欠如している、と言うのがあるんですね。最終的にじゃあこれで行こう!ってなる時「本当にこの案でいいのか?」ってことを考えてしまい慎重になりすぎるのかな〜って。
人の上に立つ以上は慎重さより決定力のあるトップの方が組織としてもスムーズにことが進むわけです。それが悪い形になったとしても全体の意思を尊重しすぎて物事を停滞させるよりは余程マシなような気もしてます。ここまで言っても自分がそんなタイプになれるとは思わないのでそれこそ根幹の人間性でしょうかね。
どのポジションで役割を果たすのが一番良い形なのか、いまだに判然としていないのが惜しい部分ですが自分が得意な役割とやりたい役割は必ずしも一致しないことも踏まえて、それを割り切って考えられるようになりたいなと思ってます。
何をしていくかの話
大学に入ってから、特に何かを成し遂げたわけでもなく、その上何も身につけることなく今の今まで来てしまったな〜と思ってます。
興味の幅が広いとは思っていますが、熱し易く冷め易いタイプなのでかなり手放してしまったの物が多く、悪い意味で広く浅い知識になってしまったなあと悔やんでいます。
情報系分野において何につけても知見が浅い人間に何ができようかと、時々不安になるわけです。
無為に院進することに意味は見出せないし、そもそも興味のある分野が本当に好きなのか、そしてやっていけるのかとか。
実は随分前から情報系の世界で生きていくことに対してそれなりの不安を抱えていて、院進について考えたり就職について考えたり、頭が痛くなることばっかりですが棒立ちでいい訳がないので、進んでいかなきゃいけないですね。
ただ自分としては情報系で死ぬまでやっていけるのかと言うと結構怪しい気がしていて、今年は首肩背中が慢性的に痛かったりってことを考えると今のままじゃ途中で体壊して辞めるだろうな〜〜って容易に想像がついてしまうのでこれ早くどうにかしたいですね。
ハマりごとの話
急にベクトル変わったけれど、僕の人生の中の1年を彩ったものは話す必要があると思ったので書きます。
最近はサッカーを見るのにハマってて、Jリーグから入ってプレミア見たりラ・リーガ見たりで結構趣味はサッカーに侵されてます。スポーツにハマるのは卓球野球に続いて3個目みたいな感じですが、サッカー今はかなりキテるので同志は仲良くしてください。やる方はからきしダメなのでパスで。
あとは新しい音楽を開拓したり。今年は三月のパンタシア(「三月がずっと続けばいい」)、Little Big(「AntIPositive」)、sano ibuki(「決戦前夜」)、髭男(「Pretender」)とかその辺りよく聴いてました。髭男は開拓とは言わないかもしれない。(紅白おめでとう)
そして今年急激に興味が湧いたのは美術館巡りで、5月に東京都美術館でクリムト展を見たのをきっかけに森美術館、国立新美術館、国立国際美術館、金沢21世紀美術館とかとかどこかに行くついでに展示を見るようになりました。国立の美術館はキャンパスパスポートが効いていいね。
以前から作品をチビチビと作って人に見てもらうと言う行為をしていたものの積極的に足を運ぶ感じではなかったので、鑑賞者の視点から、そして作者の視点からじっくり展示物に向き合って考えて対話することが楽しかったりしてます。
作者の視点からとかおこがましいけれど、作品を何を考えながら作ったのかを考えることはそのテーマについて深く考察することにつながるので、物の見方について考えさせられる大きな要因かなと思ってます。
あとは2つハマったマンガがあって。
1つ目は「ブルーピリオド」と言う美術マンガで、上のマイ美術館ブームの真っ只中(7月)にツイッターで回ってきたマンガにガンガンに惹かれて全巻買い漁ってしまったわけです。
主人公は美術なんか真面目に取り組んだこともないインテリヤンキーなんですけど、思考のプロセスがだんだん深くなっていくにつれて僕も「あ、これって実はこんな簡単なことだったのか」とか気づかされることが多くて読み応え満点です。これは曲がりなりにも制作をする自分だからなのかはわからないけれど、モチベ高めな登場人物を見てると自分もやるぞって気持ちになれるので気持ちが沈んだ時とか読みます。
2つ目は「アオアシ」っていうサッカーマンガです。これもサッカーにハマってた影響で読み始めました。
これもモチベ系(?)なんですけど、Jクラブユースで愛媛の部活でサッカーしてた主人公がサッカーに対して色々な気づきを得て、周りの人間も巻き込んでチームごと成長させていくみたいな感覚がすごいすこいです。戦術についてここまで論理的に描くサッカーマンガは今までに読んだことなかったので随分お気に入りです。
終わりの話
長くなりましたが、どう生きていこうかなとかはちゃんと考えていかなきゃな〜って書きながら思いました!来年の加藤に期待!あとマテウス遅れてごめんね!
平砂アートムーヴメント。
小貫の記事を読んでて、急に思いが迸ってしまったので書き始めてしまった。
目次
僕の部屋、240号室
「哀別/Oblivion」というタイトル、やるべきなら率直に「忘却/Oblivion」にするべきであったなぁと、展示がはじまって相当後悔した。完全に出来心で「英語タイトルと日本語タイトルずらしてみたいな」などと思ってしまった。これは一人よがりな趣味ではない、9号棟全体のコンセプトを揺るがすかもしれない一つの大切な構成要素のなかの名前という、部屋に入る前にわかる唯一の情報なんだと気付くまではずいぶん時間がかかってしまった。
作品解説を少し。 なんだか画像が投稿できないので、知らない人はなんのこっちゃわからないと思うが我慢してほしい。口で言って補えるなら写真はいらないのだ。
自転車は僕とお別れして、彼は部屋に一人で閉じこもってしまうようになった。そういうわけで彼は忘れ去られるであろう存在に成った。引きこもった彼の部屋には誰も入れない。でも、きっとほんの少しだけ思い出して欲しい気持ちがあるはずなんだろう。試しに入ってみると、寂しそうにクマの人形とベッドで横たわる彼がそこにいる訳である。
ものが忘れ去られてしまうことはしばしばあるし、古いものは捨て新しいものに乗り換えるのが常である。捨てられ生を失った彼らはそれでも一人で何か思っているのかもしれない。故人は、思い出されてこそ報われるものである。偶然あなたは生を失ったはずの自転車の部屋に入った。これをきっかけにして鑑賞者にも故人(ここでは故物だろうか)を思い出し偲んでもらえれば、という意図があった。
反省
忘れられたくないと思うのは人間の性とまで言えるかわからないが、僕はそう思っている。それを投影したはずの自転車は同じ感情を持ってしかるべきだと思う。
だから忘れられてしまった彼は寂しがっていた。だから時々扉をあけて欲しかったんだろうに、率直に思いを伝えることを僕が捻じ曲げてしまい天邪鬼な自転車に仕上げてしまった。その最たる要素が入り口のKEEP OUTのテープだ。扉に貼ったそれは鑑賞者に彼の思いを伝えるには不適切であったと、自らが自らのコンセプトに矛盾を与える形になってしまった。
僕は自分で空間を作りながら、彼のことを全然理解できていなかったことに気づいた。魂を吹き込んだ気でいただけで、まるで知った風な口を利くかのような展示をしてしまった。
自分が一番作品を理解しているはずなのだから、これだけ自分が反省しているようでは何も伝わるはずもないし、そもそも適切に表現できていないのだから当然だ。
そして、「寂しいけど強がって入るな!と主張している自転車」を表現するには力が足りなかった。力不足は自覚していたはずで、それなら「寂しがっている自転車」を押し出す方が簡単で訴えかけるには率直な気持ちであるなあ、と感じている。
しかし、これはコンセプトにおける反省点。鑑賞者からの意見はまた違う点で反省まみれである。
ある人は「ベッドで寂しそうに寝ているのがドアを開けた瞬間伝わってきた」と言ってくださったが、講評会での先生からのご意見では「一度見たけれど、何もわからなかった。ごめん」と言われてしまった。まさか謝られるとは思わなかったが、当時はすごくショックに近い感情を抱いた気がする。意見収集を自らは行わなかったが、当然のことながら(自分がうまく表現できていない時点でまるで伝わるはずもないのだけれど)僕が思って作った部屋の意図はあまり、というかほとんど伝えられなかったのかなと思う。
その上で先生にキャプションや写真などの補助的な要素を展示の中に取り入れる必要があるとアドバイスをいただき、会期後半はそれに従い写真スタンドとキャプションを設置した。このうえで「自転車への愛を感じた」などとは頂いたが、これはキャプションと写真が与えた新たな心象であり、作品本体が与えた心象ではないのだろうと感じた。ただ自転車を寝かせているだけで愛を感じることはないので。あと、写真が汚かった。白枠がはみ出ないようにやる方法もあったはずなのに、これは完全に最大の悪癖である雑さだ。作品に対して自ら泥を塗ったなと後悔した。
改めて、表現の手法への考えの足らなさをとても悔やんだ。
展示全体として
特定のものを晒して吊るし上げる趣味はないが、批評的にものを言うためには何かしらを対象としてあげる必要がある。クオリティの面では、僕の作品よりひどいものなんてあまりなかったように感じる。だからここから先はコンセプトとこの展示に対する考え方の話になる。
その上で、部屋ごとに毛色が全然違う、と言うのは僕的には大変好ましいものだと感じている。部屋を開けた時のfirst impressionは僕自身応募した時からずっと考えていたし、実際たくさんの作品が僕に様々な感情を与えてくれたように記憶している。
が、この様相はグループ展ではなく個人の集合体展だ。もちろん作者が違うから意思疎通なしにテーマに合わせることは不可能だろう。しかし、テーマとして掲げられていた「ここにおいてみせる/みる」を適切に表現できていた作品はどれほどあったのだろうと感じる。
自分も含めて、「個人個人のための展示場」としての9号棟になってしまっていたのではないかと少し感じた。
僕は人が住んでいた部屋を使う、ということでインスタレーション作品として部屋を丸々使うことを意識していた。だから展示前に合評会を行った時、作品展示場として使う形の部屋を見てこういう展示方法もあるのかと思った。これについて使い方が悪いとは思わないし、むしろその中で素敵な作品にいくつも巡り会えたので個人的にはすごいありがたかった。
でも、展示全体で見るならばパリッとした統一感は今回必要だったはずだし、そういうところを展示者は合わせる必要があったのかなと思った。ただインスタレーションにすればいいのかっていうとそんなわけはないし、インスタレーション以外はダメなのかというと今回に関して僕はなんとも言えない。
所属の「らしさ」とは
僕は講評会で先生に「君はメディア創成なんでしょう?そしたら他の子らみたいにメディアからアプローチするとかしてもいいんじゃないの」という旨のお言葉を頂いた。
正直なところ何か僕の中で何かが崩れた気がした。今まで所属なんて関係ないと思って作品を作ってきた。創成だってメディアに頼らないインスタレーションをやったっていいだろうと思って今回の展示も準備をしてきた。
今思えば、ただのメディア創成の学生がインスタレーションをやったってなんの才能も芸もないし、それがただただ荒っぽく稚拙なものだったから、得意な分野から攻めてみたらどうなの?ということだったのかもしれない。当時の発言の意図は感情に押し流されてしまってもう思い出せないのがとても惜しい。
しかし、実は僕はメディア表現を用いて作品を作ることがあまり得意ではない。すごく構想段階で悩んでしまうし、ずいぶんありきたりで稚拙なものに収束してしまう気がして今だに自分でそういう作品を作るのは少し苦手な意識がある。
他の創成の人間の何人かは映像だったりマイコンだったり、「創成らしさ」を感じさせるものだったとは思う。その分均質さを感じさせて、見た瞬間に創成の作品だ、となるものを僕は作りたいとは思わなかった。
だから差別化したっていいんだろうと思ったけど、前述したように僕の作品には意思を訴えかける力が足りなかったから、先生もそういう風におっしゃったのかなと考えている。
アートってなんだ
ここから先は、本当に僕が思っていることをそのまま飾らずに書く。(上だって率直な気持ちだけど)読んだ上で僕の考えをどんな風に言っても構わない。これは違うと思うっていうのがあったらぜひ聞かせてほしい。僕の芸術に対する観念はきっとガタガタであろうから。
僕には、アートというのはまだ「わからないもの」という位置付けであることをきちんと告白しておく必要がある。奥深いというより底がまるで見えない。みんなその上で作品を作っているのかもしれないが、僕はわからないものを自分で作ることはできないから、そのせいで今まで思慮の及ぶ程度の表現しかできなかった。これを無理に避けようとして解説を薄くしたのが今回の作品の初期状態だった。
僕の審美性が足りないとか何もわかってないとかぶっ叩かれるの覚悟で言うけど、昔見た美術館においてある「わけのわからない作品」ってあると思う。見る人からは訳わからないように見えても、裏にはものすごい意思が込められていたり、何度も見たりすると何かが伝わってくるかもしれないようなものがある。でもずっと見ていてもなーんにもわからないものだってある。それでもいいんだろう、表面には現れない裏があるっていう、芸術はそういう不安定なものであってもいい、と思っている節がある。
解説を聞かないとわからない作品があっても別にいいと思ったし、そもそも芸術家は圧倒的エゴイストたちの集まりなんだと思うから、大成した人たちはまず使えることから入って成熟して独自スタイルを築き上げていくのだろうとは思う。ただ、その芸術家たちは若いうちから訳わからないものを作っていた訳じゃないし、骨子が確立されてから思い思いのスタイルに広がったと思うので、そこに思い違いがあったのだろうかと少し思う。明らかに僕は未熟なので、伝わりづらい表現に取り組む前にわかりやすく伝える必要があったのかもしれない。
全く見えてこない作品を作る人、とても丁寧な作品解説を入れる人、説明もなしに訴えかけてくるような作品を作る人、色々な人の作品を見た。これは人によってスタイルの確立度合いだったりするのかなと思うが、何れにせよそれはバックヤードの話なので鑑賞者には「わかる」から「わからない」の間の尺度だけで判断される。だからすごく難しいなと思った。どうあるべきなんだろうか。
意味を追い求めるだけでは作品は楽しめないが、意味付けは作品に感情を与えると僕は思う。作者が投影したかったものを鑑賞者に伝える、という所作はポピュラーな作品の在り方だがわかりやすく親しみやすいものなのかな、と感じた。
何が正しいとかは絶対無いと思う、だから終わってからもこの展示はエゴがぶつかり合うんだろうと思った。だからグループ展はひどく難しいし、運営をしてくださった二人も運営面のみならずコンセプト面で色々思うところがあったのでだろう。
でもこうやってそれぞれの中にある「芸術」をぶつけ合っていくのは、こういう機会だからすごく難しいなと思いつつ、裏腹にすごく楽しいなと思った。
最後に
この機会をくださった運営のお二人には改めて多大なる感謝を申し上げたい。ありがとうございました。
ちょっと肩が痛くてしんどいのでここらで切り上げることにしたい。体が悪いとものも書けないのはなかなか辛いので、皆さん健康にステ振り頑張りましょう。
だらだら2018年を振り返るやつ
ごめんなさい大いに遅刻しました、僕です。
mast Advent Calendar 2018 24日目です。26日目になってしまって本当申し訳ない。
23日は一平さんの「ビデオ中心の学会セッション,CHI Video Showcaseのご紹介! 」、25日はマテウスくんの「度を越した自己紹介」です。マテウスにハッパかけられてなかったらまだ書いてないかもしれない。ありがとう。
言い訳すると24日にAdC入れたときの僕が全部悪いです。特演*1ファイヤーの最中で書く余裕なんてありませんでした、なにがパーリナイじゃ。危うく大学ごと燃やす勢いでした。
あとユニゾンのライブ行きました。大学の友達と行けて頭ブンブン振り回してたのでとても楽しかったし満足です。そのときの僕の髪の毛面白いので載っけますね、横の広がりと手首の曲がり具合に注目。リンク貼るとドアップになってしまうの嫌すぎて目隠しました。
*1:情報メディア特別演習。2年次開設で担当教員のもとで定めたテーマについて開発等を行い、12月25日付近に毎年最終発表会を行う。
*2:卓球部時代、貧弱な足に対してランニング,ダッシュに加えサーブ,スマッシュの踏み込みを強くすることにより無事膝の腱と脛を破壊。脛は疲労骨折しました
*3:図書館情報メディア系落合陽一准教授主宰デジタルネイチャー推進戦略研究基盤、一般に落合研とかそういう表記をされる。
*4:痴情のもつれ。自分の中では本人にまだ謝りきれていないのでちゃんと謝りたい。
*5:エクストリーム移動。春日と本学の行き来を爆速で行う。
*6:視界の端で閃光が見え気がついた時には焦げ臭い匂いと煙が。モーターは放置してはいけません。ちゃんと電源落とそうね。
好きなアーティストについて話したかった
この記事は klis雑に愛を叫ぶ Advent Calendar 2018 の15日目です。
前日はうださんの「オタク特有の長文布教記事」でした、読みごたえのある文章です是非に。
こんにちは、かとゆーと申します。klisと冠しているカレンダーですので自己紹介を軽く。
情報メディア創成学類2年、いわゆるmast17という所属です。普段何をしているかというと何もしてません。春日だしお隣だから知り合いもそこそこいるな〜ええやろと思ってぶち込みました。
少し前とやや路線ずらしたアンビバレント。そろそろ新曲くるのかな〜楽しみ。
初見は泣きかけた。なーちゃん卒業後の乃木坂が見ものですね。
- DAOKO
追記(12/15):Amazon Music Ultimateプランでは「私的旅行」ストリーミング開始を確認しました。聴いてね!
- WEAVER
小説コラボした曲「最後の夜と流星」。
みんな大好きシュガビタ。ライブはさらなり。
ペンフィールド生誕祭🎉🎉🎉
こんばんはお久しぶりですかとゆーです。
久しぶりに開きましたこのページ。何に使うか全然考えてなかったし最近は存在忘れてました。
先ほどツイッターに載せたんですけど140字の制限にいらっとして書きたくなったのでこっちにも書こうかなと。
たまたま先ほどGoogleのトップページを開いたところなんと今日は僕の大好きなペンフィールドの誕生日ということで、ペンフィールドの紹介を。
ワイルダー・ペンフィールド氏はアメリカの脳神経外科医で、ペンフィールドのホムンクルスと呼ばれる脳が身体の部位から受ける入力に対する面積を可視化した体性感覚区分を発見した方です。このクソ気持ち悪い図がペンフィールドのホムンクルスです。
生物の図表に図だけ載ってるんですけどそんなに大きくは載ってないし試験にも出ないレベルだと思うんですけど、もう当時はこの気持ち悪さになんだか惹かれてしまってすぐさま調べてました。図表のは色付きでさらにとても気持ち悪かった。
これが先ほどの図の入力に対する面積比を元に作った小人で、これを元々ホムンクルスと呼んだそう。正直なかなかにグロテスクですが、人間の神経の入力は手とか口とかに多くて、胴体とか結構少ないんだみたいなのが視覚的にわかってとても良いなって思ってます。
あとさっき調べて知ったのが脳に電極ぶっ刺して刺激させて記憶を鮮明に蘇らせるのも発見していたそうでめちゃくちゃおもろいなってなってました。さっき指摘されちゃったんですけど彼はてんかんの治療の目的でこれを発見したのできっとマッドなサイコパスではないんじゃないかな〜〜〜〜って信じています。確証はないです。
これとまた別に、実体二元論という思想を唱えたりもしてるみたいです。デカルトが代表的な論者とされている上、探した限りでは最初に唱えたのがペンフィールドっていうの見つからなかったんですけどまあ良しとしましょう。
この世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方ですね。これには魂の存在を前提としているって感じで、他の何にも依らずそれだけで独立して存在しうるものの事を言い、脳が無くとも心はある、それが魂みたいな感じですかね。
こういうこと考えるのめっちゃ好きなのでとても僕の趣味思考にあった人物なんだなあって勝手に思ってます。笑
ところでこれ調べてて思ったんですけど、Googleトップの画像の人物についてまとめているブログがあるみたいで、もうペンフィールドのことも僕が投稿した時点で僕が書いてあること以上に深く書かれていてとても悔しい気持ちでした。悔しかったので一切引用してないです。全部参考にしたのがWikipediaなのもそれはまたそれで悔しい。
今晩はこの辺りで寝ます、楽しかったですお休みなさい。
出典,参考,引用
クソ真面目さに苦しめられながら生きている話
これはcoins Advent Calender 8日目の記事です。前の記事は@yuikimilくんの「筑波大学周辺のアパート事情 - ゆいきのーと」になります。
はじめ
中学、高校在学中
浪人中
大学入学から
晴れて大学に入学した僕ですが、何か今までと違うことに気づきました。それはテストの点で単位の有無が左右されることでした。今まで模試がどれだけ悪かろうと凹みもしなかった自分が、単位を落とすことを恐れて授業に出なければテストでしくじる、という心情を持っていることに気付いた時は怖気がしました。ここまで書いてもやっぱり再履はやーなので僕はテストに怯え続けてます。嬉しい人はいないですけど。
大学に入って視野が広がっていろんなことを考えるようになって、このクソ真面目さに本格的に悩まされるようになりました。周りの人が平気で全休創成していたりテストブッチしたりするのが最初は割と理解できなくて、どうしてそこまで出来るのか不思議で仕方なかったです。今となっては煽りとかじゃなくて、マジで尊敬してます。
最近考えてること
よくないところ
僕の良くないところは他人は他人と割り切れないところですね。他人に僕の持つ真面目さを押し付けて「あいつはあんなに不真面目だ」「あいつは生活がグチャっててダメ」とか思っちゃうんですね。この辺りについては人の生き方なので口は出すべきではないんですけど、それでも僕なんかよりスペックの高い人間はこの大学にはいっぱいいるので劣等感と嫉妬ですかね、それに押し寄せられて割と頻繁に陰鬱とします。
周りの人間と違うことをすることに未だに不安を感じている節があるのでこういう風になるんですかね。自分と他人は違うことをいつか自分で自然と認識できる日が来たらいいなあ。
とは言ったものの自分も最近になって朝起きられなくなって時々授業出なくなってたりしてます。ダメですね。
性格上、基本的に物事をやり遂げないと気持ち悪いしそれを曲げることも出来なくて、さらに無駄に完璧主義の面を持ってしまっているという融通のきかない至極残念な人間なので、本当に生きづらい。
現在
今現在はこれに悩まされた真っ只中にいます。何が自分にとって一番正しいのか、何が一番大切なのかを突き詰める必要があるなあと。僕はこの大学にドベの方で入ったので、もっとチャレンジャー意識を持って生きたいですね。出来もしないのに無駄に英語A1なんて入っちゃうからもしかして英語出来るのではみたいな妄想をしてしまうわけです。クソ真面目さがゆえにTOEFL ITPも真面目に解いてしまったわけですが。
それと他人と比べちゃう理由として、自分に誇れる何かがないからなのかなあなどと。それがなくても生きていける人はいいかもしれないですけど雑多な何も出来ない人間であることに大学に入ってから嫌悪感を感じるようになりました。こんなこと言っておいて未だに何も出来ません。授業でやっているC言語だって人より理解できてないし数学も英語もできないし。趣味でも技術でもいいので、何か夢中になれることをやってみてそれなりにまで持っていけたらいいなと思ってます。
こんなまとめ方したものの心の中ではまだ何もまとまってないんですよね...()
おわり
アイデンティティとして「クソ真面目さ」と今後どう付き合っていくか、これから考えたいです。気持ち悪くなった方がいたらトイレに駆け込んでください。報告はいらないです、メンタルお豆腐なのですぐ悲しくなっちゃう。
最後に、駄文でしたが最後まで読んでくださってありがとうございました。